大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和60年(ネ)1575号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は、控訴人の負担とする。

事実

一  控訴代理人は、「原判決を取り消す。控訴人が被控訴人の代表役員及び責任役員の地位にあることを確認する。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は、控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の主張及び証拠の関係は、次の二、三を付加するほか、原判決事実摘示(原判決書四丁裏末行「同規則第六」を「同規則第六条」に、五丁表二行目「原告」から同所三行目「任免する」までを「日蓮正宗管長は、同宗の教師の資格を有する僧侶の中から主管を任命し、責任役員会の議決に基づいてこれを免ずることができる」に、六丁表初行「原告」を「被告」に、一一丁表六行目「責任役員」を「責任役員会」に改める。)と同一であるから、これを引用する。

二  当審における主張

1  被控訴人

本件の基本的問題である「創価学会問題」は、日蓮正宗における伝統的な階層的統制組織と、その組織の枠の外部に出現した巨大な信徒集団との存在という新しい事態に由来して発生した創価学会の教義、信仰上の逸脱という問題に関する日蓮正宗と学会との間の紛争であるが、これは、宗門側と学会との間の着実な話合いによって最終的に決着がつけられ、両者間の教義、信仰上及び組織上の関係についての明確で具体的な宗内規律が確立された。それにもかかわらず、控訴人を初めとする創価学会批判の有志僧侶(以下「控訴人ら」という。)は、右の宗内規律に違背する行為をしようとしたので、宗務当局は宗内秩序の維持のため控訴人らに対し中止命令を発したが、控訴人らはこれを聞き入れなかった。本件懲戒処分は、日蓮正宗の教団としての存在にかかわる教義、信仰上の問題についての法主の事前の命令、警告に反する行為に対するものであり、かかる問題は、裁判所が判断すべきものではなく、教団の自律に従うべきである。住職ないし主管が在任中寺院建物に対し一定の使用権原を有するといっても、私有財産的色彩は全くない(日蓮正宗においては、住職の地位の世襲というようなことは、全くない。)から、その地位を解任された者は、寺院建物の占有権原を失い、返還すべき義務が生ずる。

2  控訴人

(一)  本件は、真摯に宗門の将来を憂い、自らが是とする政策について僧侶、信者に対して賛同を得るための言論活動を行い、現に宗会及び監正会の各三分の二近くの勢力を獲得した控訴人らに対し、創価学会に対する政策に関して異なる方針を採る教団執行部が、懲戒処分の強行という言論以外の方法をもって意見の圧殺を図るという行為に出た事案である。控訴人が裁判所に判断を求めているのは、かかる行為が社会通念上著しく妥当性を欠き公序良俗に反し許されないことの判断、並びに、宗内選挙によって正当に選ばれた宗会議員及び監正会員の過半を処分してこれを破壊し、宗内救済の道を断った上での懲戒処分が公序良俗に反し許されないことの判断である。

(二)  管長は、控訴人を処分するに当たっては、宗規第一五条第五号に基づいて、教義に関して否定されるべきものである旨の裁定をし、その上で控訴人に対し見解を改めるよう訓戒し、これに応じないときは宗規第二四九条第四号により擯斥に処すべきものであるのにかかわらず、右に従わなかったものであり、これは、処分に関する手続違背である。

(三)  監正員は、擯斥以外の懲罰では当然には身分を失わないと解されるので、仮に、監正員藤川法融に対する降級処分が有効であったとしても、藤川は監正員としての身分を失わないから、監正会の第二次裁決の際の構成は適法であり、したがって、同会のした本件処分を無効とする裁定は管長を拘束する。監正会は、宗内の規律に関する紛争を裁決するために宗教法人規則及びその内部規則により設けられた機関であるから、監正会の意思決定は、宗内の自治の結果というべきであり、したがって、裁判所は、監正会のした本件処分無効の裁決を拘束力あるものとして承認すべきである。

三  当審における証拠関係〈省略〉

理由

一  被控訴人が本件建物(原判決別紙目録記載建物)を所有し、控訴人がこれを占有していることは、当事者間に争いがない。

二  控訴人は、被控訴人の代表役員及び責任役員の地位にあることを主張し、この地位の確認を求めるとともに、右地位にあることを本件建物の占有権原として被控訴人の本件建物明渡請求を争うものである。

ところで、被控訴人が包括宗教法人たる日蓮正宗の被包括宗教法人であること、日蓮正宗宗制、宗規及び被控訴人の教会規則では、披控訴人の代表役員は、その主管にある者をもって充てられ、代表役員は責任役員の一人となり、代表役員の任期は主管在職中とされ、日蓮正宗管長は、同宗の教師の資格を有する僧侶の中から主管を任命し、責任役員会の議決に基づいてこれを免ずることができるものとされていること、被控訴人規則は、日蓮正宗の宗制、宗規が被控訴人にも効力を有する旨規定されていること、被控訴人の代表役員(主管)は、布教活動、教会財産の管理、維持等の職務執行のため本件建物に居住する権利を有すること、控訴人は、日蓮正宗の教師の資格を有する僧侶であって、管長から被控訴人の主管に任命され被控訴人の代表役員及び責任役員の地位にあったところ、本件処分(主管を罷免)を受けたこと、以上の事実関係は当事者間に争いがない。また、控訴人が、右処分を受けるに至った経緯については、当裁判所の認定も、原判決中判決書四五丁表九行目から六五丁裏二行目までの理由説示(四五丁表末行「八及び一〇」を「八ないし一〇」に、四六丁表二行目「及び」を「ないし」に改め、五〇丁表六行目「相互に」から同所八行目「表面化するようになった。」までを削り、同丁裏八行目「続いて」を「しかし、細井日達の強い反対に会ったため態度を軟化させ」に、同所末行「述べた。これに対し」を「述べ、同時に学会規則を改正して会長の任期を終身制から任期制に、選任方法を任命制から会員による選挙制に改めることを申し入れた。これを受けて」に、五一丁表七行目「探る一方」を「探ろうとした。しかし、学会は後にその態度を翻し規則改正を行わず前示五項目の回答を迫ったため、宗門においては」に、五五丁表三行目「右の経過をたどりつつ」を「しかるに、創価学会はまたしても規則改正を行わない旨言明するなどしたため」に、五六丁表初行「宗務員」を「宗務院」に改める。)と同一であるから、これを引用する。当審における証拠調べの結果も、右認定を左右しない。

右事実によれば、日蓮正宗は、宗祖日蓮の教義を広め信徒を教化育成することを目的とし、自律的規範として宗制宗規を有する宗教団体であると認められるところ、本件は、日蓮正宗と同宗派の僧侶としての控訴人との間の争訟ではなく、日蓮正宗の被包括団体たる被控訴人(教会)と控訴人との間の代表役員、責任役員たる地位の存否確認請求権を訴訟物とし(原審乙事件)、あるいはこれを重要な争点とする(原審甲事件)争訟であり、このことは、双方の主張からして明らかである。しかしながら、前記争いのない事実として示したように、被控訴人の代表役員(同時に、責任役員も兼ねる。以下合わせて「代表役員等」という。)は日蓮正宗の管長(法主)が被控訴人に所属する教師の中から任命した主管が当然就任する制度になっているので、控訴人が被控訴人の代表役員等であるか否かは日蓮正宗の管長から主管として任命されているか否かによって決まるから、本件処分と離れて控訴人の代表役員等の地位の存否を論ずる余地はない。したがって、控訴人が現に被控訴人の代表役員等の地位を有するか否かは、専ら本件処分が有効であるか否かに係るものであるところ、本件処分は、前示認定事実によって明らかなように、控訴人が正当な理由なくして宗務院の命令に従わなかったことを理由とするものであり、日蓮正宗の内部規律たる宗規の相当法条すなわちその第二四八条第二号を適用してされたものであるから、処分の根拠とした規範が公序良俗に反する旨の主張立証のない本件では、本件処分については、右規定を初め懲戒処分に関する日蓮正宗の手続上の準則に従って処分がされたか否かを検討してその有効・無効を判断すべきことになる。

三  そこで、本件処分が手続上の準則に従ってされたかどうか、双方の主張に即して更に検討することとする。

1  〈証拠〉によると、日蓮正宗における僧侶に対する懲戒は、責任役員会の議決に基づいて行われるものである(宗規第一五条第七号)ところ、手続の詳細については、宗制第三〇条に「参議会は、代表役員より諮問された懲戒に関する事項について審議し、答申する」と定め(第二号)、宗規には、「宗務支院長は、その布教区管内の僧侶を調査し、懲戒の事由ありと認めたときは、毎年二月にその者の氏名及び事績を管長に具申する。」(第二五〇条)、「懲戒は、総監において事実の審査を遂げ、管長の裁可を得てこれを執行するものとする。」(第二五一条)、「懲戒は、管長の名をもって宣告書を作り、懲戒の事由及び証憑を明示し、懲戒条規適用の理由を附する。」(第二五三条)と定めていることが認められる。

そして、〈証拠〉によると、日蓮正宗では、本件処分に当たり、総監藤本榮道が事実の審査を遂げ、昭和五五年九月二四日、参議会に対し被控訴人教会の主管を罷免するとの控訴人処分案件を他の僧侶らに対する処分案件とともに諮問した上、宗務院において、代表役員(管長)たる責任役員阿部日顕、責任役員(総監)藤本榮道、同(重役)椎名日澄が出席して責任役員会を開き、控訴人らの懲戒処分案件を審理し、控訴人については、「宗務院が昭和五五年七月三一日付け、同年八月一一日付け及び同月一九日付けの各院達をもってした命令に正当な理由なくして従わず、同月二四日千代田区所在日本武道館での全国壇徒大会を主催し、積極的に同大会を運営した」という処分理由ありと認定判断した上、諮問案どおり被控訴人教会の主管を罷免する議決をしたこと、そして、同年九月二五日、被控訴人方において、右処分理由該当事実を記載するとともに、右事実は「宗務院における控訴人らからの事情聴取の結果と新聞「継命」の記事により明らかであるので、宗規第二四八条第二号により控訴人に対し被控訴人の主管を罷免する」旨記載した管長阿部日顕名の宣告書を控訴人に交付したこと(宣告書の交付自体は、争いがない。)が認められる。

そして、右二において一部訂正の上引用した原判決認定の本件処分に至るまでの経緯に照らして考えると、処分理由に関する責任役員会ひいては管長の認定判断は、正当として是認することができ、処分理由は存在するものというべきである。ちなみに、宗務院が本件中止命令を発する権限を有していたかどうかの点も、右認定判断の当否に関係してくるが、〈証拠〉によると、宗務院の所管事項は宗務全般にわたるものであること(宗制第一五条参照)、また、本件中止命令のごときは責任役員会の議決を要する事項でないこと(宗規第一五条参照)が認められるから、責任役員会及び管長の認定判断には、右の点での誤りはない。

2  しかるところ、控訴人は、諮問案件に対する参議会の決議は適法ではなかったと主張するので、この点を検討するに、〈証拠〉によると、右参議会は同月二四日午後一時から大石寺講堂小会議室で開催され、出席参議は議長野村日修のほか瀬戸恭道、高野永済、佐藤正英、秋山徳道及び渡辺広済の六名であって(全員出席)、審議の後無記名投票をしたところ、処分案に賛成三、反対三となったこと、その時、議長野村日修は「可否同数のときは議長が決する旨宗規第九一条に定められているので、議長の意思で賛成と決める」旨発言し、結局参議会の結論は四対三をもって処分案に賛成ということに決したとされたことが認められる。確かに、〈証拠〉によれば、宗制第二九条では参議会は参議六人で組織するとあり、宗規第九一条では、参議会の議事は参議「定数」の過半数によって決し、可否同数のときは議長が決すると定めていることが認められる。しかしながら、会議体での通常の採決方法は、議長は当初の表決には加わらず、可否同数となったときに決定権が与えられているというものであるから、これを本件に当てはめてみると、当初の表決は、賛成二票、反対三票(そのほか、野村日修は議長としての決定権行使の際に賛成であったから、当初の投票でも賛成であったと推測できる。)で反対票は多いが、定数の過半数(四票以上)に達していないから反対決議が成立したわけではなく、もちろん賛成決議が成立したものでもない。被控訴人の主張及び〈証拠〉では、議長も他の議員と同じように当初一票を投じ、更に同数になったときは議長の意思で決するというのであるが、それでは議員の投票権が議長にのみ二個与えられることになるのであって、かかる考えは平等の原則に照らし当を得ない。

要するに、参議会は諮問に対して賛否いずれの答申も出し得なかったものといわざるを得ない。しかし、諮問に対する答申意見は、管長の懲戒処分に関する権限を制限しないしは拘束するものでないことは諮問の性質から当然いえることであって(答申の効力については、宗制、宗規に何らの規定もない。)、参議会の決議が右のような内容であったことによって、本件処分が手続的に不適法となるものではない。

3  また、控訴人は、本件処分に当たり控訴人に弁疎の機会が与えられなかったとし、これを手続違背の事由とするが、日蓮正宗の宗制宗規において、僧侶の懲戒処分に当たり本人の弁疎を聴かなければならないとの定めはないばかりか、前示認定のとおり、控訴人は処分対象となった第五回全国壇徒大会開催前に宗務院から三度にわたり処分予告を含む中止警告等を受けており、控訴人ら側からも、右大会の目的、内容等について宗務当局に説明をしその考えや立場について充分弁明しているのであるから、本件処分に当たり改めて控訴人にその弁疎を聴くまでもないものといわなければならない。控訴人の右主張も、採用することはできない。

4  更に、控訴人は、本件処分の手続として、管長がまず教義についての否定の裁定を下し、控訴人に見解を改めるよう訓戒すべきであると言うが、既に見てきたように、本件第五回全国壇徒大会の開催については、宗務院から管長阿部日顕の指南に反するものであるので中止するよう三度にわたり警告を受けているのであるから、控訴人らの行動が日蓮正宗の教義、弘宣流布に反するものであるとの阿部日顕の裁定は表明されており、中止警告の中に訓戒も含まれているものと見ることができる。

控訴人の右主張も採用することができない。

5  控訴人は、本件処分が監正会の事前の処罰禁止の裁決及び事後の処分無効の裁決により無効であると主張するので、この点について判断する。

まず、監正会が、控訴人らから出されていた昭和五五年九月一七日付けの処分の事前禁止の申立てに対し、同月二五日、第五回全国壇徒大会出席者に対して処罰をしてはならないとの趣旨の裁決文を採択してこれを管長に上申したことは、当事者間に争いがない。前掲甲第一号証によると、日蓮正宗では宗務の執行に関する紛議又は懲戒処分につき、異議の申立てを調査し、裁決する機関として監正会が置かれている(宗制第三二条)が、具体的な審査事項としては、宗規第三五条、第一三〇条が選挙又は当選の効力に関する異議申立てにつき、宗規第三五条、第二五五条が懲戒処分に関する不服申立てにつきそれぞれ規定していること、右規定はいずれも選挙が施行され、懲戒処分がされた後の異議又は不服申立てに関する規定であることが認められ、そうであれば、監正会は、宗務の執行又は懲戒処分に対する事後的審査権限を有するにすぎない機関であるというべきである。したがって、監正会がした右の裁決は、監正会の職務権限外の行為であるといえるから、その効力を生ずるに由ないものである。

次に、監正会が、同月二九日監正員岩瀬正山、鈴木譲信、藤川法融、大泉智昭及び小谷光道の五名の出席により開かれ、本件処分が無効である旨の裁決をし、これを管長に上申したことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉によると、宗規第三三条には、監正会の裁決に対しては何人も干渉することはできない旨を定めていることが認められるから、監正会の裁決は、管長を初め宗内のすべての機関を拘束するものと解される。しかるところ、日蓮正宗においては、管長阿部日顕が同月二四日岩瀬、鈴木に対し各停権一年・藤川に対し降級二級の処分をしたことは、当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、岩瀬及び鈴木に対する懲戒処分を記載した宣告書は、同月二六日右二名の各住所において総監藤本榮道の代理人から右両名に交付しようとしたが受領を拒絶されたこと、藤川に対する懲戒処分宣告書は、右同日藤川の居住する住本寺(京都市所在)において藤本の代理人から藤川に交付されたことが認められる(もっとも、藤川は宣告書読了後これを代理人に返還しているが、処分告知の効果を左右するものではない。)。そうであれば、監正会の裁決のあった同月二八日には、少なくとも藤川に対しては懲戒処分の効力が生じているということができる(控訴人は、この点につき、処分理由(控訴人と同じく宗規第二四八条第二号)が存在しないこと及び監正会の機能停止のみを目的とした処分であるから懲戒権の濫用であることを主張するけれども、これに関する事実関係は、原判決理由中判決書九〇丁表六行目から九二丁表五行目「存しない。」までの説示(これを引用する。)のとおりであるから、控訴人の右主張は採用しない。)。

そこで、藤川に対する処分の右監正会裁決に及ぼす影響について考えるに、〈証拠〉によると、日蓮正宗における僧階(僧侶の等級)は、教師につき、大僧正、権大僧正、僧正、権僧正、大僧都、権大僧都、僧都、権僧都、大講師(以下省略)等一三級に分けられ(宗規第一九一条)、監正員になれる資格は僧都以上の教師とされている(同第一四一条)こと、懲戒処分は、軽い順にいえば、譴責、停権、降級、罷免、擯斥の五種目としている(第二四四条)ことが認められ、〈証拠〉によると、藤川は処分前は僧都であったことが認められるから、二級降級により大講師となり、その結果当然に監正員としての資格を失ったものというべきである(控訴人は、藤川は僧階については降級の処分を受けてはいるものの、同人の監正員としての資格は、その職務の性質上失ってはいない旨の主張をするけれども、右は独自の見解であるから、採用しない。)。そして、〈証拠〉によると、監正会は、常任監正員の定数五名全員の出席がなければ開会することができない定めになっている(宗規第二二条ないし第二四条、第二九条)ことが認められるから、前記出席者のうち藤川が無資格者となれば残る四名では開会の定数を欠くことになり、このような状態での決議は、開会手続を定めた宗規第二九条に違反する違法な決議であってその効力はないものと解せざるを得ず、したがって、右裁決に管長その他の宗内機関に対する拘束力を認めることはできないものである。

控訴人の監正会の裁決の存在を理由とする本件処分無効の主張は、失当である。

右1から5までの事実関係に徴すると、本件処分は、日蓮正宗における手続上の準則に従ってされたものということができる。

四  ところで、前記二において一部訂正の上原判決理由を引用して示した本件処分に至るまでの経緯に照らして考えるに、控訴人らが本件中止命令に従わなかったのは、創価学会の現状(もとより、当時のもの)に対する批判及び正信覚醒運動の活動方針を発表することが自分たちの使命であるという認識から出たものと認められるところ、これは、日蓮正宗の教義の解釈を前提とする信者の教化育成の在り方という宗教上の問題にかかわる事柄であるといわなければならない。そうすると、控訴人が正当の理由なくして本件中止命令に従わなかったという理由(宗規第二四八条第二号)に基づく本件処分の効力については、裁判所の判断が及ばないではないかとの疑問も生じてくる。しかしながら、宗務院の命令に従わないことを許される「正当の理由」の中に、教義、信仰に関する事項も含まれると解することは、宗教団体としての日蓮正宗の宗規の解釈としては、およそ不可能である。けだし、これを積極に解するときは、教義、信仰に関する事項は法主(管長)の専権であるにもかかわらず、「正当の理由」の名の下に、右事項に関する受命者個人の独自の見解を主張して宗務院の命令を無視することができるからである。したがって、右「正当の理由」には教義、信仰にかかわる事由は含まれず、また、信者の教化育成の在り方その他宗教上の事由をもって本件中止命令の効力を争うこともできないものと解すべきであり、このように解釈したからといって、宗教団体における内部規律としての性質上、宗規第二四八条第二号が公序良俗に反することにはなり得ない。右のとおりであるから、本件中止命令に従わなかったという控訴人らの所為を評価するに当たっては、教団執行部の創価学会対策を批判し正信覚醒運動を展開することが自分たちの使命であると認識したという側面は、これを捨象して考えるべきであり、単純に本件中止命令に従わなかったという点でとらえるべきである(現に、本件の懲戒事由に関する責任役員会ないし管長の認定判断(前記三1)は、右の観点から控訴人の所為には処分理由ありとしたものであり、日蓮正宗の手続上の準則に従ったものというに十分である。)。そうであれば、本件の処分理由(宗規第二四八条第二号)は、「宗教上の教義、信仰に関する事項に何らかかわりを有しないもの」であり、したがって、本件処分については、日蓮正宗の「手続上の準則に従って」主管たる地位の「剥奪がなされたかどうかのみを審理判断すれば足りる」ことになる(最近の最高裁判所第二小法廷平成元年九月八日昭和六一年(ネ)第九四三号事件判決・裁判所時報一〇一一号一ページ参照)。前記二、三に説示したところは、正にこの考え方に従ったものである。

なお、控訴人の主張の中には、本件中止命令は控訴人らの表現の自由を抑圧することを目的としたものであり、本件処分は懲戒権の濫用であるとする趣旨のものがあるけれども、日蓮正宗が殊更に控訴人らの言論を圧殺することのみを目的として本件中止命令を発し、また専ら控訴人らを困惑させることのみを目的として本件処分に及んだという証拠はないから、控訴人の右主張は採用しない。本件中止命令や本件処分が公序良俗に違反するものとも認められない。

五  以上によれば、本件処分は有効とするに十分であり、控訴人は、昭和五五年九月二五日限り被控訴人の主管の地位を失い、これに伴って被控訴人の代表役員等の地位も失い、本件建物の使用権原は同日限り失効し、被控訴人に対しこれを明け渡すべき義務を負うに至ったものというべきである。したがって、被控訴人の控訴人に対する本件建物明渡請求(原審甲事件)は理由があり、控訴人の被控訴人に対する代表役員等の地位確認請求(原審乙事件)は理由がないことになる。

六  よって、被控訴人の請求を認容し、控訴人の請求を棄却した原判決は相当であるから、民事訴訟法第三八四条、第九五条及び第八九条を適用して、主文のように判決する。

(裁判長裁判官 賀集 唱 裁判官 安國種彦 裁判官 清水 湛)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例